得寿堂では【硬膜の緊張】を緩め脳脊髄液の循環を促進することで自然治癒力の源である脳及び中枢神経の力を最大限引き出すこと1点に特化しています。
脳と脊髄とは私達の自然治癒力そのものです。
得寿堂には頭痛だけでなく腰痛(椎間板ヘルニアやすべり症)、アゴや膝や股関節などの関節の痛み、眠れない、精神的な緊張感がつよい、疲れやすいなどの自律神経失調症、パニック症やウツなどさまざまな症状で悩まれてる方が来られ改善しています。
しかし私(三好)は先生ではありません。
単なるファシリテーター(促進者)に過ぎないのです。
上記に挙げたさまざまな症状はクライアント自身の自然治癒力が改善に向かわせているのです。
クレニオセイクラルセラピーの創始者ジョン・E・アプレジャー博士は自然治癒力のことを
インナーフィジシャン(内なる医者)
と呼びました。
得寿堂では米国アプレジャーインスティチュート公認インストラクター(日本人で4人)の私(三好)がアプレジャー博士が開発したクレニオセイクラルセラピー(CST、頭蓋仙骨療法)の10ステッププロトコルと呼ばれる方法とSER(体性感情解放)を正確にそして忠実に行っています。
背骨や骨盤、手や足の関節についてはオステオパシーの間接法でソフトに時間をかけて行っています。
得寿堂ではクライアントの自然治癒力が最大限に発揮できるようにアプレジャー博士のクレニオセイクラルセラピーで【硬膜の緊張】を緩め脳脊髄液の循環を促進することでその方の脳を元気にする事に徹しています。
私の両親のそれぞれのご先祖様はその昔、漢方医でした。
父方は奈良の高取城にいたと聞いてます。
母方の私の曾祖父、大串管蔵(天保9年4月13日生?大正10年4月17日没)は佐賀県鍋島藩が江戸幕府から鎖国中、唯一海外との交流も認められてた長崎の出島のある長崎湾の警備の為に作った深堀城(現在は長崎市深堀町に陣屋敷跡として一部残ってます)の漢方医でした。
明治維新後、城はなくなったのでそのまま深堀町で漢方医を開業しました。
その屋号が得寿堂です。
当時は天井に乾燥した薬草が大量に吊ってあったそうです。また現代で言うカッピング、吸い玉療法も行ってたと聞きました。▲初代得寿堂 大串管蔵(漢方医)
大串管蔵の3男、田代良顕(田代家へ養子、明治20年12月13日生~昭和35年10月27日没)が私の祖父で、長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部の前身)出身で西洋医学を学んだ医師になりました。
戦争中は海軍医となり第3艦隊の軍医長を勤め海軍大佐退役後は上海公部局衛生局長を勤め、終戦後長崎市深堀村に引き揚げ得寿堂医院として開業しました。また、関東大震災の時は東京の築地にあった海軍の施設で勤務し、現在の東京の原宿駅近くに住んでいたこともあり、私が原宿、千駄ヶ谷で開業したのも何かの偶然としか思えません。
晩年は長崎市議員として当時の深堀村を長崎市に編入する為、尽力したと聞いてます。
現在のM’sLAB得寿堂の店内に飾ってある額や中国茶器などは祖父が上海から持ち帰ったものです。▲第二代得寿堂 田代良顕(医師、海軍大佐)
▲代々、受け継がれてきた得寿堂の薬箱です。 (長崎市歴史博物館に寄贈)